覗く、除く

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初めてカメラを手にしてからもう何年でしょうか?
なんだかんだ、長く続いている「好きなこと」の一つです

「記録する機械」というよりか
「作る機械」という認識が強いので
(お仕事の時は自我は消しますが)
わりと、自分好みの偏った写真になる事が多いです

どこらへんかといえば
色・構図・技法でしょうか
あまり補正はせず、被写体寄りで開放気味

そういうのをわりと撮っていますけど
これもまたほんとに好み別れるところなんですよね
あまり商業的ではない

いろいろと分母少なそうなことが好きな傾向があります
おかげで「あれ?これって変かな?」と思うこともありますが
なるべく右へならえしないように、怖がらないようにしたいと思います

黒い服を着た集団の中で、白い服を堂々と着る
日本人的じゃない発想
そうありたいと、昔からずっと思ってる
いろいろ痛い目もみますけど・・

そしていろいろ考えた結果、虹色の服を着ればいいよということに
落ち着きましたけども

ん、何が言いたいのかよくわからん

前にfacebookに書いたことを
こっちにも貼っておこう

ここは記憶の記録、思考の記録ですから
流れていってしまうものよりも大事に

ちょっと仮眠してたら、信じられないくらいうまくループして終わる映画みたいな夢を見た。具現化したいと思ったけどコスト的に映画は無理、手間的にアニメーションは無理、技術的に小説も漫画も無理・・と
「可能性はゼロではない」というテーマだった、いやぁすごかった。今ふと思い出したけど、寝る前に「記憶も記録もゼロに戻す方法」というのについて考えてたからかなぁ。

人間が生まれて今まで生きてきたら、いろんな記憶や記録が蓄積される。それは生きていくためにはとても大事で重要なことだけど、「新しい感覚」を得るためには邪魔だったりすることもあると思うんです。
そもそも「あ、これ新しいな」というのは「古い記憶・記録」と比較して生まれるものなんだけども・・
いっぺんその「記憶や記録」をゼロに戻してみたらどうなるか、完全なゼロというのは無理だと思うんです、遺伝子や細胞までも否定してしまうことになるから。
擬似的に、生まれたての赤ん坊のような感覚になることで「新しいもの」を吸収しやすくなる状態を作りたいと思ったんです。

一切の記憶や記録を消去したことにして、言葉も声も視覚も呼吸することすらも忘れるくらい深く深く、自分に沈み込むように、周りに溶け込むようになってみる。
一度リセットして、自分を始めてみる。目を開けて初めて光を見る、音を聞く、呼吸する。そうなった時に人は何を思うのか。

っていうのを考えてたんです。

生まれてから今までに形成された「自我」っていうのは、全くもっての自分自身のみの力で得たものではなく、環境やおかれている状況の影響も受けます。
砂糖が甘いというのは、この味を「甘い」という言葉で記憶しているから、その味に似たものを甘いというふうに判断する。
でも自分自身「甘い」と感じている味覚は、他の人は全く同じように「甘い」と感じているかといえば、そうでもないように思うんです。
感覚を「甘い」という言語で表現して認識しているだけで。
それが「甘い」だと共通の認識だったりするのかもしれないけど「旨い」だったら?

ピーマンを食べた時に、ピーマンの味を記憶してそれを旨いと認識する人もいれば不味いと認識する人もいる。なぜをれを旨いと認識したのか、不味いと認識したのか。

とかいう事を延々と考えていたんですけど、話がまとまらなかったのでいったんここで終わり。

まぁ簡単に言いたかったのは「いま好きと思っているものは直感的な部分と、記憶と記録による判断からの(似たもの探し)的な部分がある」ってことなんですけどね。
うまくいえないや。

つまりは「先入観とかをなるべく抑えこんで直感でいいと思ったものを選び、いいと思ったことをする」ってことです
ゼロにすることって多分ムリだと思うけど
限りなくゼロに近づけるように

よし、今日は撮影だ
好きなように撮りまくろう

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